◆ 知恵もいろいろ ◆
△「浅知恵」△
「"当事者"が"第三者"である」というのではさすがに「浅知恵」とさえいえない。
それでも、知恵という字がつくのは、
「当事者がいつも客観性を担保している」かのような幻想を根付かせようとする
「浅知恵」が見え隠れするからかもしれない。
しかし、「そんなことはない」ことを「みんな」が知っている。
選ばれた「指導者」が度外れた"主観性"のサンプルだったのは一世紀も昔ではない。
未曾有の極悪「指導者」は"知恵もの"ではあった。 「ウソも百回言えば・・・」
この「浅知恵」は数年で劇的に破れたが、
それでも、この「浅知恵」に学ぼうという「知恵もの」があらわれたのはつい最近のことだ。
「あそ知恵」とでも呼ぼう。これなら語呂も悪くはない。
「あべ知恵」という"悪ノリ"もあらわれるが、
これでは、幾分かの知恵があることになってしまう・・・
「そんなことは断じてない」が"丁寧な説明"であるというわけだが、
聞き覚えの理屈建て・知識やトークの手法は「知恵」とは別物である。
「知恵をつけられた」というのが適切かもしれない。
△ところで、
兼行法師は、
「智」について書き残している。
『徒然草』は14世紀後半か。
第三十八段
「伝へて聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。」
-
-
-
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、
つらつら思へば、誉(ほまれ)を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。
誉(ほ)むる人、毀(そし)る人、共に世に留(とど)まらず。
伝へ(つたえ)聞かん人、またまたすみやかに去るべし。
誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。
誉(ほまれ)はまた毀り(そしり)の本(もと)なり。
身の後の名、残りてさらに益なし。これを願ふも次に愚かなり。
但(ただ)し、強ひて(しいて)智を求め、賢を願ふ人のために言はば、
智恵出でては偽り(いつわり)あり。
才能は煩悩の増長せるなり。
伝へて(つたえて)聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。
いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。
いかなるかを善といふ。
まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へ(つたえ)ん。
これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。
もとより、賢愚・得失の境(さかい)にをらざれば(居らざれば)なり。
---
※"さかい"とは「境地」ほどの意か。※
第百三十一段
「おの(己)が分を知りて、及ばざる時はすみやかに止(や)むを、智といふべし。」
貧しき者は、財をも(っ)て礼とし、老いたる者は、力をも(っ)て礼とす。
己が分を知りて、及ばざる時は速かに止(や)むを、智といふべし。
許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて(しいて)励むは、己れ(おのれ)が誤りなり。
貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて(おとろえて)分を知らざれば病を受く。
第百六十七段
「たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。」
-
-
-----我が智を取り出でて人に争ふ-----
-
-
---品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉(ほまれ)にても、
人に勝(まさ)れりと思へる人は、
たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。
慎みて、これを忘るべし。
痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍(わざわい)をも招くは、たゞ、この慢心なり。
※内心にそこばくの咎--
「言葉にしなくても嫌なオーラを無意識に発散させている」
という見事な現代語訳があった。※
第百七十二段
「心おのずから静かなれば、無益のわざを為(な)さず。」
-
-
-
老いぬる人は、精神衰へ(おとろえ)、淡く(あわく)疎か(おろそか)にして、感じ動く所なし。
心自ら(おのずから)静かなれば、無益のわざを為さず(なさず)。
身を助けて愁へ(うれえ -うれい)なく、人の煩ひ(わずらい)なからん事を思ふ。
老いて、智の若きにまされる事、 若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。
※徒然草--
原文は、「和漢混交」と「和文のみ」の二つの文体が任意に併用されている。
「徒然なる」は「つれづれなる」という表記らしい。
われながら、ところどころで、顔から火が出る。※
△「浅知恵」△
「"当事者"が"第三者"である」というのではさすがに「浅知恵」とさえいえない。
それでも、知恵という字がつくのは、
「当事者がいつも客観性を担保している」かのような幻想を根付かせようとする
「浅知恵」が見え隠れするからかもしれない。
しかし、「そんなことはない」ことを「みんな」が知っている。
選ばれた「指導者」が度外れた"主観性"のサンプルだったのは一世紀も昔ではない。
未曾有の極悪「指導者」は"知恵もの"ではあった。 「ウソも百回言えば・・・」
この「浅知恵」は数年で劇的に破れたが、
それでも、この「浅知恵」に学ぼうという「知恵もの」があらわれたのはつい最近のことだ。
「あそ知恵」とでも呼ぼう。これなら語呂も悪くはない。
「あべ知恵」という"悪ノリ"もあらわれるが、
これでは、幾分かの知恵があることになってしまう・・・
「そんなことは断じてない」が"丁寧な説明"であるというわけだが、
聞き覚えの理屈建て・知識やトークの手法は「知恵」とは別物である。
「知恵をつけられた」というのが適切かもしれない。
△ところで、
兼行法師は、
「智」について書き残している。
『徒然草』は14世紀後半か。
第三十八段
「伝へて聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。」
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智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、
つらつら思へば、誉(ほまれ)を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。
誉(ほ)むる人、毀(そし)る人、共に世に留(とど)まらず。
伝へ(つたえ)聞かん人、またまたすみやかに去るべし。
誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。
誉(ほまれ)はまた毀り(そしり)の本(もと)なり。
身の後の名、残りてさらに益なし。これを願ふも次に愚かなり。
但(ただ)し、強ひて(しいて)智を求め、賢を願ふ人のために言はば、
智恵出でては偽り(いつわり)あり。
才能は煩悩の増長せるなり。
伝へて(つたえて)聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。
いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。
いかなるかを善といふ。
まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へ(つたえ)ん。
これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。
もとより、賢愚・得失の境(さかい)にをらざれば(居らざれば)なり。
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※"さかい"とは「境地」ほどの意か。※
第百三十一段
「おの(己)が分を知りて、及ばざる時はすみやかに止(や)むを、智といふべし。」
貧しき者は、財をも(っ)て礼とし、老いたる者は、力をも(っ)て礼とす。
己が分を知りて、及ばざる時は速かに止(や)むを、智といふべし。
許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて(しいて)励むは、己れ(おのれ)が誤りなり。
貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて(おとろえて)分を知らざれば病を受く。
第百六十七段
「たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。」
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-----我が智を取り出でて人に争ふ-----
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---品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉(ほまれ)にても、
人に勝(まさ)れりと思へる人は、
たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。
慎みて、これを忘るべし。
痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍(わざわい)をも招くは、たゞ、この慢心なり。
※内心にそこばくの咎--
「言葉にしなくても嫌なオーラを無意識に発散させている」
という見事な現代語訳があった。※
第百七十二段
「心おのずから静かなれば、無益のわざを為(な)さず。」
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老いぬる人は、精神衰へ(おとろえ)、淡く(あわく)疎か(おろそか)にして、感じ動く所なし。
心自ら(おのずから)静かなれば、無益のわざを為さず(なさず)。
身を助けて愁へ(うれえ -うれい)なく、人の煩ひ(わずらい)なからん事を思ふ。
老いて、智の若きにまされる事、 若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。
※徒然草--
原文は、「和漢混交」と「和文のみ」の二つの文体が任意に併用されている。
「徒然なる」は「つれづれなる」という表記らしい。
われながら、ところどころで、顔から火が出る。※
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