スキップしてメイン コンテンツに移動

E057 知恵もいろいろ

◆ 知恵もいろいろ ◆


△「浅知恵」△

「"当事者"が"第三者"である」というのではさすがに「浅知恵」とさえいえない。

 それでも、知恵という字がつくのは、
「当事者がいつも客観性を担保している」かのような幻想を根付かせようとする
「浅知恵」が見え隠れするからかもしれない。

しかし、「そんなことはない」ことを「みんな」が知っている。

 選ばれた「指導者」が度外れた"主観性"のサンプルだったのは一世紀も昔ではない。
未曾有の極悪「指導者」は"知恵もの"ではあった。 「ウソも百回言えば・・・」

この「浅知恵」は数年で劇的に破れたが、
それでも、この「浅知恵」に学ぼうという「知恵もの」があらわれたのはつい最近のことだ。

 「あそ知恵」とでも呼ぼう。これなら語呂も悪くはない。


 「あべ知恵」という"悪ノリ"もあらわれるが、
これでは、幾分かの知恵があることになってしまう・・・

「そんなことは断じてない」が"丁寧な説明"であるというわけだが、
聞き覚えの理屈建て・知識やトークの手法は「知恵」とは別物である。
「知恵をつけられた」というのが適切かもしれない。



△ところで、

兼行法師は、
「智」について書き残している。

『徒然草』は14世紀後半か。


 第三十八段

   「伝へて聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。」
-
-
-
 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、
つらつら思へば、誉(ほまれ)を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。

誉(ほ)むる人、毀(そし)る人、共に世に留(とど)まらず。
伝へ(つたえ)聞かん人、またまたすみやかに去るべし。
誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。

誉(ほまれ)はまた毀り(そしり)の本(もと)なり。
身の後の名、残りてさらに益なし。これを願ふも次に愚かなり。

但(ただ)し、強ひて(しいて)智を求め、賢を願ふ人のために言はば、
智恵出でては偽り(いつわり)あり。
才能は煩悩の増長せるなり。

伝へて(つたえて)聞き、学(まね)びて知るは、まことの智にあらず。

いかなるかを智といふべき。可・不可は一条なり。
いかなるかを善といふ。

まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へ(つたえ)ん。
これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。

もとより、賢愚・得失の境(さかい)にをらざれば(居らざれば)なり。
---
※"さかい"とは「境地」ほどの意か。※



 第百三十一段

   「おの(己)が分を知りて、及ばざる時はすみやかに止(や)むを、智といふべし。」


 貧しき者は、財をも(っ)て礼とし、老いたる者は、力をも(っ)て礼とす。
己が分を知りて、及ばざる時は速かに止(や)むを、智といふべし。

許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて(しいて)励むは、己れ(おのれ)が誤りなり。

貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて(おとろえて)分を知らざれば病を受く。



 第百六十七段

   「たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。」
-
-
-----我が智を取り出でて人に争ふ-----
-
-
---品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉(ほまれ)にても、
人に勝(まさ)れりと思へる人は、
たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎(とが)あり。
慎みて、これを忘るべし。

痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍(わざわい)をも招くは、たゞ、この慢心なり。

※内心にそこばくの咎--
 「言葉にしなくても嫌なオーラを無意識に発散させている」
  という見事な現代語訳があった。※



 第百七十二段

   「心おのずから静かなれば、無益のわざを為(な)さず。」
-
-
-
老いぬる人は、精神衰へ(おとろえ)、淡く(あわく)疎か(おろそか)にして、感じ動く所なし。
心自ら(おのずから)静かなれば、無益のわざを為さず(なさず)。
身を助けて愁へ(うれえ -うれい)なく、人の煩ひ(わずらい)なからん事を思ふ。

老いて、智の若きにまされる事、 若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。



※徒然草--
原文は、「和漢混交」と「和文のみ」の二つの文体が任意に併用されている。
「徒然なる」は「つれづれなる」という表記らしい。


われながら、ところどころで、顔から火が出る。※

コメント

このブログの人気の投稿

L017 人類に可能なこと 人類の若さ

▽「人類は自然のチャンピオン」と思うにいたった、地表の人類が、    再び 外界を見つめ始めているが、 ▼人類は若い  可能性 若さ故に膨大な可能性を秘めている。   ・未来社会の意義     未来社会が本史   ・これまでの歴史の意義     前史   ・現在の意義     前史から本史へと移行する稀有な時期 ○○ - - -人類史全体がまだどんなに若いか、そして、我々の今日の見解をなんらかの 絶対的な妥当性をもつもののように考えることがどんなに笑うべきことであるか がわかる   「反デューリング論」 P177L+5 '76-'78(-'94最後の序文) ○○ 人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する   「批判」序言 '59 →L022 L022 思考は我々の宇宙を決して逸脱しない ○○  われわれはここで、このような見方が今日の自然科学の状態と完全に一致するかどうかという問題に立ち入る必要はない。 それは地球の存在そのものに終わりがあるかもしれないこと、   そして 地球上に人間が住める状態に終わりがあることはかなり確実であること予言しており、   したがって 人 類の歴史にものぼり道だけでなく、くだり道があることを認めている 。 それはとにかく、 われわれは、 社会の歴史が下降し始める転換点からまだかなりへだたっている し、 ヘーゲル哲学に当時の自然科学がまだまったく議題にのせていなかった題目をとりあつかうことを期待することはできない。   「FB論」 P18L-8 '88 ○○ 人類が少くとも今のところ大体において進歩の方向に動いているという信念   「FB論」P43 →T032 哲学のそと  シュタルケのかんちがい →L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論

T044 抽象を極端なところまで押しすすめるなら

F.Engels T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性 ↘(から続く) たとえば、太陽系の物体と地球上の物体との中間には、小惑星  ーーその若干のものにあっては       直径が弟系ロイス侯国ほどしかないーー 流星、等々がある。 また、地球上の物体と分子との中間に、生物界においては細胞がある。 これらの中間項が証明していることは、 自然はもっぱら飛躍でなりたっているからこそ、 自然にはどういう飛躍もない のだ、 ということにすぎない。  数学も、 現実の諸量を用いて計算する段になると、 やはりこういう考え方をそのまま適用するのである。 地球上の力学では、 地球の質量はすでに無限大と見なされており、また、天文学では地球上の物体やそれと同程度の大きさの流星は無限小と見なされている。 同様に、 天文学がいちぱん近い諸恒星をこえてわが恒星系の構造を研究しだすやいなや、 それにとって太陽系の諸惑星の距離や質量は消滅する。 ところが、 数学者が抽象という彼らの不落の要塞、いわゆる純粋数学にひきこもるやいなや、 こういう相似はみな忘れさられ、 無限はまったく神秘的なものとなり 、 無限量が解析学で取り扱われる仕方は まったく不可解な、いっさいの経験、いっさいの分別に矛盾するもののように見えてくる。 奇妙にも いつも正しい結果をもたらす自分たちのこういう手続を、数学者たちが説明する、というよりむしろ弁解するのにもちだしている愚諭やばか話は、 たとえば、数学者や自然科学者たちが嫌悪の情をいくら述べてもまだ述べきれずにいるあのヘーゲルの自然哲学のいちばんひどい空想    ー見かけだけの空想もあれば、ほんとうの空想もあるが−−― にくらべてさえ、いっそう輪をかけたものである。 彼らがへーゲルについて非難しているそのこと、 すなわち、 抽象を極端なところまで押しすすめ るということを、 彼らは自分ではるかに大がかりにやっている。 いわゆる純粋数学なるものの全体が抽象を収り扱っていること、 純粋数学の取り扱う諸量は、厳密にいえば すべて想像上の量 であること、 そして あらゆる抽象は、 極端なところまでそれを押しすすめるなら、 背理か、でなければ自己の反対物に転化する こと、 これらのことを彼らは忘れているのである。 数学上の無限は 、 たとえ無意...

L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論

▼ 初期の人類にとって、   「自然」や「他の生物」は、自らと同列の対象だった。(にちがいない。) ▽ 人類が、近隣の自然に働きかける規模が増大するのにつれて、   「自ら」と「その他の自然」の間の関係について、   特別の観念が生まれる。 ▽ 地表の環境に、「人類という自然」が大きく関わるようになった末、   温暖化などの新しい関係にたどりつく。 ▲ こうして、   「人類と言う自然」は、「他の自然」との同等性に   再び直面する。 ◇ 「意識という新しい自然の機能(階層)」が生まれたことは、    厳然たる事実ではある。 ◇ しかし、階層間の同等性、対抗性もまた厳然としてある。 □ この意識という人類に特有な機能が、「意識」の中で肥大化する。   しかし、この機能は、どこまでも自然の機能の一部分である。 ■  人類は自然のチャンピオン という「観念」は   「現代の観念論」の'哲学的'基盤の一つであるかもしれない。    意識は(観念は)自然を支配してしまうことができる     というかんちがい   ( 意識が 自然必然性を支配する という素朴なかんちがい ) ※ 自然としての自らを(さえ)支配できない、   「生死」   ということだけで、このかんちがいは・・・ →L020 自然を支配する →L017 人類に可能なこと 人類の若さ →L023 自然は存在として再帰的 意識と存在