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E055 「アホノミクス」と「揶揄される次元」の、「世界史を画する経済的弓矢」。尋常の対案は・・・


念入りにつくりあげた「二大政党」幻想が雲散霧消、

即席の、つたない「えせ極右」サポーターも、"風前の灯"。



さきごろ現れた、
やけくそに近い、苦し紛れの「自滅の弓矢」。

"軽い"メディアは、"無邪気げ"にもてはやすが、
"重い"エコノミストからは、「アホノミクス」と揶揄(やゆ)される。

「政経」科目を学ぶ高校生も首をかしげる、「思いつき」の「経済政策」。
・・・「世界史を画する革命的マクロ経済政策」・・・見ようによれば、"言い得て妙"・・・

政治経済的知性の水準は「次元が違う」。

 国際社会は、
 あまりのことに言葉を失って、"あたらずさわらず"お茶をにごす・・

 ・・・そういえば、"イギリス紳士風スナイパー"の"飛び道具"は石器の鏃(やじり-ふりがなが親切)か・・・


政権が早晩自己破綻するのは随意だが、
もろともに社会が大破綻に直面する

この大破綻を阻むことが、
我が民族にきざまれようとする「世界史的」汚名を避ける道だろう。



そのための道は?

 「マインドの転換」。。。
   ~~~"竜頭蛇尾"というわけでもない・・・

A は、だれでも思いつく次元だが、
B には、着実に思いを巡らせば届く。


A 「景気回復は、株高によって。」
    ↓
B 「株高は、景気回復によって。」


A 「賃上げは、景気回復によって。」
    ↓
B 「景気回復は、賃上げによって。」


A 「安定雇用は、景気回復によって。」
    ↓
B 「景気回復は、安定雇用によって。」



思いつき」は澱(おり)のようにたまって、
ついには、カリスマ的支配者として自己のうちにわだかまる。

 いまだ一部には醒めやらぬマインドコントロール
 思い起こそう。

  古くは、「富国強兵」。
  
少し古くは、「オウム」。

  ついこの間まで、むきだしの「原発安全神話」。

    このさい挙げる・・・
  20世紀の「トリクルダウン理論」。 
  今期決算という「至上命題」。 ミクロの呪縛。




自縄自縛(じじょうじばく)のマインドコントロールからの覚醒!!



長らく自縛のコントロールの下にある当事者の覚醒には「手助け」が要(い)る。


マクロ経済を、マインドコントロールと破綻から救うのは、
生活者大衆の「確かな現実感覚」による「手助け」である。


今、「助け」を求める歴史の叫び(さけび)が聞こえてくる。

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