-------------
類的意識は人類の外化--疎外
-------------
極、ごく、抽象的に言えば、
「類的意識」とは「外化した人類」である。
意識という「機能」が独自にふるまう。
しかし、この外化は人類に依存しているし、
一体化へと向かう。
新しい形で「融合」する。
この融合の主導者は、外化されたはずの意識の側である。
と、あえて言おう。
このとき、人類が新しい段階にはいる。
こうして、
「人類に対峙する対象」が画然として姿を見せる。
「人類以外の自然」が。
および、
「あるがままの人類」が。
※
「あるがままの人類」には説明が要る。
・自然としての人類
・自己の主人としての人類
まぁ、「対象とする事のできる対象」としての人類・・・
※
類的意識と個性の敵対は、
疎外された意識(外化した意識)という意識のありかたの
基礎の上に 生じる。
「一体化した」人類では、
「類的意識」と「個性」は敵対しないで、「対立」する。
※
「自己」と「自己以外」があるがままに並立する。
「意識という機能を持つ人類」は、
たいした中間項をおくことなく対象に向かうことができる。
自己をただただ自己として対象とすることができるようになる。
そのような自己と画されるものとして、
自己以外に対することができるようになる。
たとえば、
e=mc2。
「人類という自然」と、「核の力」の力関係の現状について、
なんら自己の事情にとらわれることなく、
この自然現象にむかうことができる。
「安全神話」の生じる余地はない。
※
しかし、
この程度の見識は、
「人類の一体化」を、またなくても 普通には可能だが、
「一体化」に向かう途上の営為といえるかもしれない。
特殊な(普通でない)勢力は、「自己の事情」のために、
右往左往しているようにみえるが、既定の演出ででもあるのか?
「市長」の勇ましいこしくだけ。 我知らず目を伏せる。
類的意識は人類の外化--疎外
-------------
極、ごく、抽象的に言えば、
「類的意識」とは「外化した人類」である。
意識という「機能」が独自にふるまう。
しかし、この外化は人類に依存しているし、
一体化へと向かう。
新しい形で「融合」する。
この融合の主導者は、外化されたはずの意識の側である。
と、あえて言おう。
このとき、人類が新しい段階にはいる。
こうして、
「人類に対峙する対象」が画然として姿を見せる。
「人類以外の自然」が。
および、
「あるがままの人類」が。
※
「あるがままの人類」には説明が要る。
・自然としての人類
・自己の主人としての人類
まぁ、「対象とする事のできる対象」としての人類・・・
※
類的意識と個性の敵対は、
疎外された意識(外化した意識)という意識のありかたの
基礎の上に 生じる。
「一体化した」人類では、
「類的意識」と「個性」は敵対しないで、「対立」する。
※
「自己」と「自己以外」があるがままに並立する。
「意識という機能を持つ人類」は、
たいした中間項をおくことなく対象に向かうことができる。
自己をただただ自己として対象とすることができるようになる。
そのような自己と画されるものとして、
自己以外に対することができるようになる。
たとえば、
e=mc2。
「人類という自然」と、「核の力」の力関係の現状について、
なんら自己の事情にとらわれることなく、
この自然現象にむかうことができる。
「安全神話」の生じる余地はない。
※
しかし、
この程度の見識は、
「人類の一体化」を、またなくても 普通には可能だが、
「一体化」に向かう途上の営為といえるかもしれない。
特殊な(普通でない)勢力は、「自己の事情」のために、
右往左往しているようにみえるが、既定の演出ででもあるのか?
「市長」の勇ましいこしくだけ。 我知らず目を伏せる。
コメント