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E054 類的意識は人類の外化--疎外

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 類的意識は人類の外化--疎外
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  極、ごく、抽象的に言えば、


「類的意識」とは「外化した人類」である。

意識という「機能」が独自にふるまう。

 

しかし、この外化は人類に依存しているし、
一体化へと向かう。

新しい形で「融合」する。
 この融合の主導者は、外化されたはずの意識の側である。
  と、あえて言おう。

このとき、人類が新しい段階にはいる。

こうして、
「人類に対峙する対象」が画然として姿を見せる。

 「人類以外の自然」が。
  および、
 「あるがままの人類」が。





「あるがままの人類」には説明が要る。
  ・自然としての人類
  ・自己の主人としての人類

 まぁ、「対象とする事のできる対象」としての人類・・・


類的意識と個性の敵対は、
 疎外された意識(外化した意識)という意識のありかたの
 基礎の上に 生じる。

「一体化した」人類では、
 「類的意識」と「個性」は敵対しないで、「対立」する。


「自己」と「自己以外」があるがままに並立する。

「意識という機能を持つ人類」は、
 たいした中間項をおくことなく対象に向かうことができる。

 自己をただただ自己として対象とすることができるようになる。

 そのような自己と画されるものとして、
 自己以外に対することができるようになる。

 たとえば、
 e=mc2。
  「人類という自然」と、「核の力」の力関係の現状について、

  なんら自己の事情にとらわれることなく、
  この自然現象にむかうことができる。
   「安全神話」の生じる余地はない。

    ※
   しかし、
   この程度の見識は、
    「人類の一体化」を、またなくても 普通には可能だが、
    「一体化」に向かう途上の営為といえるかもしれない。

   特殊な(普通でない)勢力は、「自己の事情」のために、
   右往左往しているようにみえるが、既定の演出ででもあるのか?

   「市長」の勇ましいこしくだけ。 我知らず目を伏せる。


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