------------- 類的意識は人類の外化--疎外 ------------- 極、ごく、抽象的に言えば、 「類的意識」とは「外化した人類」である。 意識という「機能」が独自にふるまう。 しかし、この外化は人類に依存しているし、 一体化へと向かう。 新しい形で「融合」する。 この融合の主導者は、外化されたはずの意識の側である。 と、あえて言おう。 このとき、人類が新しい段階にはいる。 こうして、 「人類に対峙する対象」が画然として姿を見せる。 「人類以外の自然」が。 および、 「あるがままの人類」が。 ※ 「あるがままの人類」には説明が要る。 ・自然としての人類 ・自己の主人としての人類 まぁ、「対象とする事のできる対象」としての人類・・・ ※ 類的意識と個性の敵対は、 疎外された意識(外化した意識)という意識のありかたの 基礎の上に 生じる。 「一体化した」人類では、 「類的意識」と「個性」は敵対しないで、「対立」する。 ※ 「自己」と「自己以外」があるがままに並立する。 「意識という機能を持つ人類」は、 たいした中間項をおくことなく対象に向かうことができる。 自己をただただ自己として対象とすることができるようになる。 そのような自己と画されるものとして、 自己以外に対することができるようになる。 たとえば、 e=mc2。 「人類という自然」と、「核の力」の力関係の現状について、 なんら自己の事情にとらわれることなく、 この自然現象にむかうことができる。 「安全神話」の生じる余地はない。 ※ しかし、 この程度の見識は、 「人類の一体化」を、またなくても 普通には可能だが、 「一体化」に向かう途上の営為といえるかもしれない。 特殊な(普通でない)勢力は、「自己の事情」のために、 右往左往しているようにみえるが、既定の演出ででもあるのか? 「市長」の勇ましいこしくだけ。 我知らず目を伏せる。
小半世紀のときをこえてよみがえる~ - qmancha 万茶 気泡 - じゆうのくにへ