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E046 原子力開発の出発点は、「安全」ではなく「危険」 E=mc2は未だ「神」の領域

論理的にはありうるが現実にはありえない
という非現実的な非論理!?の傷が眼前に露呈した。

C2・・ 光の早さの二乗!!
「1秒間に地球を7回半回る速さ」 そのまた二乗!!

核分裂は物質のエネルギーを解き放つ。
 いろいろあるが、そのエネルギーは、

 E=mc2

現在の人類はこのエネルギーを手なずける能力を持ち合わせているか?

 この分野は、今はまだ、ほとんど「神の領分」に属する。

物質(質量)に閉じ込められたエネルギーはひとたび解放されるや、解き放った主人を蹂躙する。
もはや人類はエネルギーの主人ではない。
人類はmc2を解き放つ力を得たが、制御するにはいまだ力およばない。

 この現実がまのあたりにある。
 「交通事故は必ず起こる。」というのとはわけが違う。
 「宇宙人がせめてくる」というたぐいの事柄でもない。

原子力の利用を推進するためには、この事実に対峙する力が要る。

原発は危険だ。」からの再出発。
 「原発は安全だ。」からの転換。

 厳格に現実を見据える対応。
  対象と自己の力の現実。

 たっぷりと時間をかける確実な対応。
  100年、世紀単位の時間。

性急な「原発推進論」は非現実的な原発原理主義に自ら縛られた結果、
 結局、原子力利用の長い足取りに冷水を浴びせた。

性急さと自己すりこみからの決別。
覚醒し、現実をみつめよう。



「来年に原発終結」などは問題外だ。
「危険だ。」から出発すれば、出来合いの構造はとりあえず使えなくもない。
「危険」を承知なら・・・

薄氷を踏みながらも、緊急に新しいエネルギー開発に軸足を移す。

今は、
知恵と資産と熱意を薄氷にではなく荒野に注ごう。


L020 自然を支配する

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