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T047 資本関係に内在する欺瞞があらわれる 労働の包摂 労働の生産力と「資本の生産力」

資本関係に内在する欺瞞も現われてくる。

労働の価値維持力は資本の自己維持力として現われ、
労働の価値創造力は資本の自己増殖力として現われ、

そして、全体として、概念からすれば、
対象化された労働生きている労働の充用者として現われる

『直接的生産過程の諸結果』p81
  (形式的、形態的包摂)
(470 M)
(63-65草稿 ? F)

Es tritt auch die dem Kapitalverhältnis immanente Mystifikation ein. Die Werterhaltende Kraft der Arbeit erscheint als Selbsterhaltungskraft des Kapitals, die Wertschöpferische Kraft der Arbeit als Selbstverwertende Kraft des Kapitals, und im Ganzen, dem Begriff nach, die vergegenständlichte Arbeit als Anwender der lebendigen.
--------------------------------------------


協業や工場内の分業や機械の応用による、

そして一般的にいえば、
  特定の目的のための自然科学や力学や化学などの意識的応用への、
  すなわち技術学などの応用への、生産過程の転化による、

  そしてまた、
  これらのすべてに対応する大規模な労働などによる、
労働の社会的生産力、
  または直接に社会的な、社会化された(共同的な)労働の生産力
   (ただこのような社会化された労働だけが
    数学などのような人間の発展の一般的な所産を
    直接的生産過程に応用することができるのであるが、

    他方ではまた
    これらの科学の発展は
    物質的生産過程の一定の高さを前提するものである)、



このような、
個々人の多かれ少なかれ孤立的な労働などに対比しての
社会化された労働の生産力の発展、

またそれとともに、
社会的発展の一般的な所産である
科学の直接的生産過程への応用


これらはすべて
資本の生産力として現われ
労働の生産力としては現われず
または
ただ資本と同じであるかぎりでの労働の生産力として現われるだけであって、

いずれにせよ、
個々の労働者の生産力としても
生産過程で結合された労働者の生産力としても現われない



資本関係一般のうちに存在する欺瞞は、
では、
資本のもとへの労働の単なる形態的包摂の場合にそうだったよりも、
また、そうでありえたよりも、
はるかに発展する。



他方、ここでは
資本主義的生産の歴史的意義もまた、
まさにこの直接的生産過程そのものの変化と労働の社会的生産力の発展とによって、
はじめて明確に(独自に)現われるのである。

 すでに(第三章で)示されたように、
ただ「観念的に」だけではなく「事実的に」

労働者の労働の「社会的なもの」は、
労働者にたいして、
単に外的にだけではなく敵対的かつ対立的に、

そして資本において対象化され人格化されたものとして、
相対する
のである。



 絶対的剰余価値の生産が、
資本のもとへの労働の形態的包摂の物質的表現と見られることができるように、

相対的剰余価値の生産は、資本のもとへの労働の実質的包摂の物質的表現と見られることができる。

『諸結果』P86-87
  (実質的包摂)
(472 M)
(63-65草稿 ? F)

Die gesellschaftlichen Produktivkräfte der Arbeit, oder die Produktivkräfte direkt gesellschaftlicher, vergesellschafteter (gemeinsamer) Arbeit, durch die Kooperation, die Teilung der Arbeit innerhalb des Ateliers, die Anwendung der Maschinerie, und überhaupt die Verwandlung des Produktionsprozesses in bewusste Anwendung der Naturwissenschaft, Mechanik, Chemie etc., für bestimmte Zwecke, Technologie usw., ebenso wie das allem diesen entsprechende Arbeiten auf grosser Stufenleiter usw. (es ist nur diese vergesellschaftete Arbeit, die fähig ist, die allgemeinen Produkte der menschlichen Entwicklung, wie Mathematik etc. auf den unmittelbaren Produktionsprozess anzuwenden wie andrerseits die Entwicklung dieser Wissenschaften eine bestimmte Höhe des materiellen Produktionsprozesses voraussetzt), diese Entwicklung der Produktivkraft der vergesellschafteten Arbeit im Gegensatz zur mehr oder minder isolierten Arbeit der Einzelnen usw. und mit derselben die Anwendung der Wissenschaft, dieses allgemeinen Produkts der gesellschaftlichen Entwicklung auf den unmittelbaren Produktionsprozess, dies alles stellt sich dar als Produktivkraft des Kapitals, nicht als Produktivkraft der Arbeit, oder nur als Produktivkraft der Arbeit, soweit sie mit dem Kapital identisch ist, und jedenfalls nicht als Produktivkraft weder des einzelnen Arbeiters, noch der im Produktionsprozess kombinierten Arbeiter. Die Mystifikation, die im Kapitalverhältnis überhaupt liegt, wird jetzt viel weiter entwickelt, als es bei der nur formellen Subsumtion der Arbeit unter das Kapital der Fall war und sein konnte. Andrerseits tritt hier auch die historische Bedeutung der kapitalistischen Produktion, eben durch die Umwandlung des unmittelbaren Produktionsprozesses selbst und die Entwicklung der gesellschaftlichen Produktivkräfte der Arbeit, erst schlagend hervor (spezifisch hervor).

Es ist nachgewiesen worden (Ch. III), wie nicht nur „vorgestellt“, sondern „tatsächlich“ das „Gesellschaftliche“ etc. seiner Arbeit dem Arbeiter nicht nur fremd, sondern feindlich und gegensätzlich, und als im Kapital vergegenständlicht und personifiziert gegenübertritt.

Wie die Produktion des absoluten Mehrwerts als materieller Ausdruck der formellen Subsumtion der Arbeit unter das Kapital, so kann die Produktion des relativen Mehrwerts als die der reellen Subsumtion der Arbeit unter das Kapital betrachtet werden.


*Mystifikation 欺瞞
 「欺く」という強い意思・・? 「幻惑」とでも・・

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