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E044 本当の善意。 消費税というテーマは、みんなが 我慢するかどうか という問題ではない

◆◆消費税というテーマは、
 みんなが「我慢するかどうか」という問題ではない。

   ということが、以前にましてよく見えてきたのはこの数日のことだ。


△ 「善意の我慢」をよいことにして、
   自己の責務からのさらなる逃避を
   声高に目指してきたものがある。

△ 「善意の我慢」は、当事者の我慢にとどまらない。
   我慢の限界をとうに越えた人たちに、さらなる「善意の我慢」をおしつける。


問題は次のごとし。

◆ 生きていくことが出来ないという、あきらかな大量の劇的な被害。
   「自己責任」によって、大量につくられた200万円未満。
    すでに、一月のうち数日の食費分を担税している。

    あらたな5%はさらに数日分の糧(かて)をまきあげる。

    まきあげられた糧の行き先は・・

◆ この税の構造は、社会の経済基盤を破壊する。 
    陽光ふりそそぎ紺碧のエーゲ海を前にみる歴史ある国。
    その破綻の教訓は、この点にこそいかされなければならぬ。

    法人税を減じ、消費税を増やして破綻へと至った現代ギリシャ。
     この国が、この教訓を世界に示すことによって、
     ルネサンス(人間復興)を導いた古代ギリシャの役割を
     再現するチャンスを得た
    というのは皮肉にすぎるだろうか?


☆ 『鼻のほどおごめきて』、
   ものしり顔で喧伝される「善意」と「理性」。

   「善意」と「理性」が二重に踏みにじられ、コケにされる。

  兼好法師は、
   その人の虚言にはあらず。と助け船を少々。
  しかし、
   問題は徒然草の世界をこえた現実の課題。
   「ここが我慢のしどころ」どころでもない。


くりかえそう。

☆★ 鼻のほどおごめきて、したり顔で持ち出された
    エーゲ海の悲劇の教訓は、
     そのまま、
   新旧喧伝者とその亜流の物知り顔に向かってきびすを返す。

→T046 なにものにもとらわれない新しい日本人の誕生の間際


*横道
 きびすをかえす。
  ひきかえす。あともどり。Uターン。
  進行方向を180度変更する。反転。


   この「反転」は意思を感じさせる。反転して向き合うという意思。
      ただの方向転換ではない。反撃?

       "悲劇の教訓"そのものが意思をもつはずもないが、
        そこに意思(意志)をみいだすのは人間の理性・・
           --古来の言葉、深淵なひろがり--
       くりだした手勢の反撃が当主にもたらすのは、恐怖? 自己嫌悪?
 

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