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T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性

F.Engels  ところで、原子はけっして単一なものとは考えられていないし、 あるいは総じてすでに知られている最小の物質粒子ともされていない。 原子を複合的なものと見る見解にますます傾きつつある化学そのものは度外視するとしても、 大多数の物理学者が主張しているところでは 光や熱の放射を媒介する宇宙エーテルも同じように不連続の粒子からなりたっており、 しかもそれらの粒子はまことに小さいものであって、 それらの 粒子の 化学上の原子や物理学上の分子にたいする関係 は、 原子や分子の 力学上の物体にたいする関係 にひとしいということである。 すなわち、 d 2 xの dxにたいする関係 に等しいということになる。 だから、ここでもまたわれわれは、 物質の構造にかんして今日普通におこなわれている観念のうちに、 やはり 第二階の微分量 をもっているわけである。 そして、 自然にはさらにd 3 x,d 4 x等々にたいする相似物も存在しているはずだと考えたい人があれば、そう考えてわるい理由はまったくないのである。  だから、物質の構造についてどういう見解をとるにしても次のことだけは確かである。 それは、物質は、 その質量の相対的な大きさにおうじてはっきり 分界されたもろもろの大きな 群 からなる一(いち)系列 に編成されており 、 したがって、 それぞれの 群 の構成諸要素は、 その質量においてたがいにきまった有限な比をたもっているが、 次の群の構成諸要素にたいしては数学的意味での無限大あるいは無限小の関係にある 、ということである。 見えるかぎりでの恒星系、太陽系、地球上の物体、分子と原子、最後にエーテル粒子、これらのそれぞれはこのような群の一つをなしている。 個々の群と群のあいだに中間項があることは、事態をすこしも変えるものではない。 たとえば、 →T044 抽象を極端なところまで押しすすめるなら Engels 「現実の世界における数学上の無限の原像について」 の末尾の直前 1877? 1885? 諸説 →L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論

T044 抽象を極端なところまで押しすすめるなら

F.Engels T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性 ↘(から続く) たとえば、太陽系の物体と地球上の物体との中間には、小惑星  ーーその若干のものにあっては       直径が弟系ロイス侯国ほどしかないーー 流星、等々がある。 また、地球上の物体と分子との中間に、生物界においては細胞がある。 これらの中間項が証明していることは、 自然はもっぱら飛躍でなりたっているからこそ、 自然にはどういう飛躍もない のだ、 ということにすぎない。  数学も、 現実の諸量を用いて計算する段になると、 やはりこういう考え方をそのまま適用するのである。 地球上の力学では、 地球の質量はすでに無限大と見なされており、また、天文学では地球上の物体やそれと同程度の大きさの流星は無限小と見なされている。 同様に、 天文学がいちぱん近い諸恒星をこえてわが恒星系の構造を研究しだすやいなや、 それにとって太陽系の諸惑星の距離や質量は消滅する。 ところが、 数学者が抽象という彼らの不落の要塞、いわゆる純粋数学にひきこもるやいなや、 こういう相似はみな忘れさられ、 無限はまったく神秘的なものとなり 、 無限量が解析学で取り扱われる仕方は まったく不可解な、いっさいの経験、いっさいの分別に矛盾するもののように見えてくる。 奇妙にも いつも正しい結果をもたらす自分たちのこういう手続を、数学者たちが説明する、というよりむしろ弁解するのにもちだしている愚諭やばか話は、 たとえば、数学者や自然科学者たちが嫌悪の情をいくら述べてもまだ述べきれずにいるあのヘーゲルの自然哲学のいちばんひどい空想    ー見かけだけの空想もあれば、ほんとうの空想もあるが−−― にくらべてさえ、いっそう輪をかけたものである。 彼らがへーゲルについて非難しているそのこと、 すなわち、 抽象を極端なところまで押しすすめ るということを、 彼らは自分ではるかに大がかりにやっている。 いわゆる純粋数学なるものの全体が抽象を収り扱っていること、 純粋数学の取り扱う諸量は、厳密にいえば すべて想像上の量 であること、 そして あらゆる抽象は、 極端なところまでそれを押しすすめるなら、 背理か、でなければ自己の反対物に転化する こと、 これらのことを彼らは忘れているのである。 数学上の無限は 、 たとえ無意...

PC004 ibus-Anthy 入力 日本語と英数文字の混在

△ Linux上で   日本語入力を   ibus-Anthyでおこなう     (gnome) △ ローマ字入力。 △ usキーボードを使う。    jpでも事情は似ているが・・ ▲ 日本語にくわえて、   英数文字を多用する。    まぁ、日本語文字と英数文字が混在する。 ★ このような環境では、   入力モードの切り替えがストレスになる。 ◆◆ 身についた入力の悪癖に対応する   キー割付の変更を試行する。◆◆  1. gnomeのUserの環境を支配するキーバインドの定義変更  2. ibus-Anthyのショートカットキーの設定変更    による。 ☆ まず、    悪戦苦闘した、     .Xmodmap の内容は以下。ただのこれだけ・・      実質4行 (この「grammar」に拠るとコメントアウトは !) ====================================================================== !!!!!!! us keyboard における、Anthy日本語入力のための定義 !!!!!!!!!!!! !!!!!!! 日本語と英数が混在するときの煩雑を軽減する !!!!!!!!!!!!!! !! Caps lockをF10に !! !  ibus-AnthyでF10を手近に置くため remove Lock = Caps_Lock keycode 66 = F10 !! MS windows Keyを Hiraganaに !! !  uskeyにおいてHiraganaキーをつくる;ibus-Anthyでつかう remove mod4 = Super_L keycode 133 = Hiragana !※ ! grammarの忘備を以下に (grammarの私的解釈) !!Caps lockをCtrlに !remove Lock = Caps_Lock !keycode 66 = Control_L !add Control = Control_L ! ↑の定義の説明↓ ! remove Lock = Caps_Lock ! 「Lock という modifierグループ」 から ! 「現在 Caps_Lock というキーシンボルを持つキー」(具体的には Capsキー) ! を除く ! key...