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zzzzL014 抽象=そぎおとし 抽象の背理

2009/08/10


抽象とは具体をそぎおとすことだ。捨象の結果。
分析じゃない。


抽象の結果、残されたものが、
そぎおとされた具体と対立することがある。

●抽象の背理
残された具体と、そぎ落とされた具体の対立

とりわけ、
対立物の片側をそぎおとしてしまうと、(=これも極端な抽象)

主要な対立物の片側だけがいきのこる。 こうして、
現実へと(事実へと)立ち戻ると、「背理」に直面する。

「極端な抽象は背理となる。」

△共通性をもつ具体の連なりから、共通性を抽出する。
このとき、抽象という作業は有効だ。
事柄の範疇をつかむ上で。

しかし、しばしば、
ある範疇に属するとされるもののうち、
この抽象を否定する事実があらわれる。
その事実の前には、
抽象の結果が変更されなければならない。

◇ 抽象とは、純粋に思考の領分である。 !RFC!
事実の領域にあるのではない。

▲  したがって、
抽象を絶対化して
抽象の結果から事実をとらえようとすると、
明らかな背理があらわれることがある。

いつでも、事実とともにいよう!

▲ 抽象と事実が相いれない時は、
誤りは抽象の側にある。(事実の側ではなく)

カモノハシは、卵生だが「哺乳類」である。
ワニには気嚢(に近い構造)がある。(鳥類でよいか?恐竜?)

△独立した事柄の抽象にはさらなる危険が。恣意。

◆ ことがらを、他との連関なしに単独に抽象する。
ほとんど、恣意から逃れられない。
好き勝手な捨象。

こんなことは、実際にはおこりにくい。
抽象は、捨象と比較をともなう。(普通は)
比較がなければ、捨象も困難。

恣意(へ理屈)を意図する特殊な人士は別だが。


◆ともあれ、たったひとつの事実が「抽象の背理」をうちくだく。
単独でも、連関の中でも。


L016 弁証法(的関係) 弁証法も若い



※「単一民族国家」という抽象(「日本」の抽象の仕方の一つ)
(実際には「他の国家」と比べると。が前提だが。)
複数の民族という事実の前に、
この抽象は簡単に否定される。
未解明の古代史、先史も否定者であるだろう。

※※「特殊な」人士によって、「日本」が
単独で抽象されると上の結論が得られる。
アイヌを構成者としない。という思い込み。
(ひとりよがり)という特殊性。
しかし、「日本」の抽象(中傷)ではある。


※ ⇉抽象的普遍 と 具体的普遍
    (具体が残されない抽象 抽象の自立)

→T044 抽象を極端なところまで押しすすめるなら

コメント

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