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L016 弁証法(的関係) 弁証法も若い

弁証法的関係とは
◇ 事物の関係の仕方の抽象である。

  様々のものは、様々な関係を持つのだが、
  その関係の仕方から具体性をそぎおとして、
  「諸関係の間に
  一般的な、普遍的な、共通する」関係の仕方を
  抽出した結果が、弁証法的関係である。(としよう。)

 ▽様々な事物とは、
  世界のすべての事物を目指すのだが、
  すべてを(過去、現在、とりわけ未来の)、知ることはできない。
  のだから、
   抽出される「弁証法的関係」は、以下の時には、変化する(べきだ)。
    ・知られなかったことが知られるようになる。
    ・新しい現実が生じる。
    ・これらが、「この抽象」の矩(のり)をこえる

▽人類は若い。 
  その知的到達も若い。
  弁証法も若い。

  ◇ 知られている事物の関係から抽出した「弁証法的関係」
    によってのみ、未来を予測することには、慎重でなければ。
     また、
  ◇ 新たな知識によって、「この抽象」を妥当なものへと
     強化することが
    いつも、意識されていなければ。

    この抽象は、いつも批判にさらされていなければならない
     そうでなければ、「弁証法」は桎梏と化す。

◆だが、これを利用しない手はない
    殺風景な諸事実が、
     生き生きとした事柄として見えるようになることがしばしば。
    ある時点をとらえた無味乾燥な「数字の羅列」が、
     躍動し始めることが・・。

 ◇ どこかで、だれかが、いったような・・
  「人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する」 
   自分で解決しうる課題を課題とするものだ。ともいえる。

   ・人間が自分に提起する課題は、人間が関わることによって
     生じる課題以外にはありえない。
    知らない事実からうかび出る「法則」などない。

   ※「夢」という疑似体験から生じる「法則」
     ならあるかもしれないが、
      それはせいぜい正真正銘の「神学論争」上の法則だろう。
      「夢の体験」が意義をもつのは、
       「夢」を生じさせる現実が対象とされるときだけだ。

   ・関わってきた体験から明かになった「法則」は、
     妥当である可能性を持っている。




☆ 「物事には例外があるものだ」という、
   「便利な非常口」の行き先は、
  恐るべき「停滞」か悲惨な「混乱」である。

L014 抽象=そぎおとし 抽象の背理


※※※ 別件。※ 
固定したもので、その運動(変化)の仕方をあらわす。"ゼロ"から"無限"まで。 微分。個別のものの。

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