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T032 哲学のそと  シュタルケのかんちがい

 ここでただもう一つ注意しておかなければならないのは、シュタルケがフォイエルバッハの観念論を不当な場所にもとめているということである。「フォイエルバッハは観念論者(イデアリスト)である。かれは人類の進歩を信じている。」(一九ページ)――「全体の基礎、下部構造は、それにもかかわらずあくまで観念論(イデアリスム)である。実在論は、われわれにとっては、われわれがわれわれの観念の流れを追うばあいに道をまちがえないための保護にすぎない。同情や、愛や、真理と正義への熱中やは観念的な力ではないか。」(序文八ページ)

 第一に、ここで言われている観念論(イデアリスム)とは、理想的な目標の追求というということ以外の意味をもたない。しかし理想的目標が必然的に関係があるのは、せいぜいカントの観念論とその「定言的命令」(注一)だけである。しかしそのカントでも、かれの哲学を「先験的観念論」とよんだのは、そこで道徳的理想もまた取扱われているからではけっしてなく、まったく他の理由によるのであって、このことはシュタルケもおぼえているであろう。哲学的観念論は道徳的、別の言葉で言えば、社会的理想への信仰を中心とするものだという迷信は、哲学のそとで生じたものである。すなわちシラーの詩のなかでかれらに必要なわずかな哲学的教養の断片を暗誦しているドイツの俗物たちのあいだで生じたのである。カントの無力な「定言的命令」――それは不可能なことを要求するし、したがってまたけっして実現されることがないから、無力である―― をだれよりも鋭く批判し、またシラーが仲だちとなってつくりだされた、実現不可能な理想に対する俗物的な熱中をだれよりも無慈悲に嘲笑したのは、完全な観念論者ヘーゲルその人であった。(たとえば、かれの『精神現象学』(注二)を見よ。)

(注一)判断の分類で、「もし……なら、……である」という判断は仮言的とよばれ、これにたいしてこのような条件のつかない判断は「定言的」とよばれる。「定言的命令」とは、無条件的な命令であって、カントは、道徳律は、「もし……でありたいなら、……せよ」という条件的な命令とちがって、無条件的だというのである。カントの「定言的命令」の定義は「なんじの意志の格率が同時に普遍的立法として通用するように行為せよ」であるが、カントの道徳観の根本特徴は、道徳をすべての自然的および社会的内容からきりはなし、たんに義務のための義務としているところにある。

(注二)ヘーゲルの『精神現象学』の「精神」のところにある「道徳的世界観」を見よ。

 しかし、第二に、人間を動かすものはすべてその頭脳を通過しなければならないということは、どうしても避けることができない。飲み食いでさえそうであって、それは頭脳によって感じられた飢えと渇きにはじまり、同じく頭脳によって感じられた満腹に終るのである。人間にたいする外界の諸影響は、人間の頭脳のうちに表現され、さまざまの感情、思想、衝動、意思決定として、一口でいえば「観念の流れ」として反映され、そしてこうした形をとって、「観念の力」となる。ところで、こうした人間が一般に「観念の流れ」を追い、そして「観念の力」が自分に影響をあたえることを認めるという事情――そうしたことが人間を観念論者にするとすれば、ある程度正常に発達した人間は、すべて生れながらの観念論者であって、そうなると、およそ唯物論者というものがどうして存在することができよう。

 第三に、人類が少くとも今のところ大体において進歩の方向に動いているという信念は、唯物論と観念論の対立とはまったく無関係である。フランスの唯物論者たちは、理神論者であるヴォルテールやルソーにおとらず、ほとんど狂信的な程度にまでこうした信念をいだいており、そしてこの信念のために幾度となく最大の一身上の犠牲をはらった。もし「真理と正義とへの熱中」に――このきまり文句を善意に解するとして――生をささげた人があったとすれば、たとえばディドロはそうであった。だからシュタルケがこうしたことをすべて観念論と主張するとすれば、唯物論という言葉も、二つの方向の完全な対立性もここではかれにとってすべての意味をうしなっていることを証明するにすぎない。

 事実を言えば、シュタルケはここで、おそらく無意識にとはいえ、ながい年月にわたる僧侶たちの中傷に由来する唯物論という名前にたいする俗物的偏見に、許しがたい譲歩をしているのである。俗物は、唯物論といえば、牛飲馬食、眼や肉の楽しみに耽(ふけ)ること、豪奢な生活、金銭欲、貪欲、所有欲、利殖、取引所詐欺、一口に言えば、かれら自身がひそかにそれに耽っているあらゆるみにくい悪徳と思っている。そして観念論とは、徳、普遍的な人類愛、一般に「よりよき世界」への信仰と思っている。この信仰をかれらは他人のまえでは誇っているが、かれら自身がそれを信じるのは、せいぜい、いつもの「唯物論的」放埒につきものの二日酔いあるいは破産に苦しんでいるあいだだけである。そしてかれらはそのさいその愛誦の歌「人間は、なかばは獣(けもの)でなかばは天使」を歌うのである。

 その他の点ではシュタルケは、今日ドイツで哲学者と称して大きな顔をしている大学教授たちの攻撃と学説にたいしてフォイエルバッハを擁護することに大いに骨おっている。ドイツ古典哲学のこの後産(あとざん)に興味をもつ人々にとっては、このことはたしかに重要なことである。シュタルケ自身には欠くことのできないことと思われたであろう。しかしわれわれはこのことで読者をわずらわさないことにする。

フォイエルバッハ論
P43(大月) '88


Hier ist nur noch zu bemerken, daß Starcke den Idealismus Feuerbachs am unrechten Ort sucht.

"Feuerbach ist Idealist, er glaubt an den Fortschritt der Menschheit." (S. 19.) - "Die Grundlage, der Unterbau des Ganzen, bleibt nichtsdestoweniger der Idealismus. Der Realismus ist für uns nichts weiter als ein Schutz gegen Irrwege, während wir unsern idealen Strömungen folgen. Sind nicht Mitleid, Liebe und Begeisterung für Wahrheit und Recht ideale Mächte?" (S. VIII.)

Erstens heißt hier Idealismus nichts andres als Verfolgung idealer Ziele. Diese aber haben notwendig zu tun höchstens mit dem Kantschen Idealismus und seinem "kategorischen Imperativ"; aber selbst Kant nannte seine Philosophie "transzendentalen Idealismus", keineswegs, weil es sich darin auch um sittliche Ideale handelt, sondern aus ganz andren Gründen, wie Starcke sich erinnern wird. Der Aberglaube, daß der philosophische Idealismus sich um den Glauben an sittliche, d.h. gesellschaftliche Ideale drehe, ist entstanden außerhalb der Philosophie, beim deutschen Philister, der die ihm nötigen wenigen philosophischen Bildungsbrocken in Schillers Gedichten auswendig lernt. Niemand hat den ohnmächtigen Kantschen "kategorischen Imperativ" - ohnmächtig, weil er das Unmögliche fordert, also nie zu etwas Wirklichem kommt - schärfer kritisiert, niemand die durch Schiller vermittelte Philisterschwärmerei für unrealisierbare Ideale grausamer verspottet (siehe z.B. die "Phänomenologie") als grade der vollendete Idealist Hegel.

Zweitens aber ist es nun einmal nicht zu vermeiden, daß alles, was einen Menschen bewegt, den Durchgang durch seinen Kopf machen muß - sogar Essen und Trinken, das infolge von vermittelst des Kopfs empfundnem |282| Hunger und Durst begonnen und infolge von ebenfalls vermittelst des Kopfs empfundner Sättigung beendigt wird. Die Einwirkungen der Außenwelt auf den Menschen drücken sich in seinem Kopf aus, spiegeln sich darin ab als Gefühle, Gedanken, Triebe, Willensbestimmungen, kurz, als "ideale Strömungen", und werden in dieser Gestalt zu "idealen Mächten". Wenn nun der Umstand, daß dieser Mensch überhaupt " idealen Strömungen folgt" und "idealen Mächten" einen Einfluß auf sich zugesteht - wenn dies ihn zum Idealisten macht, so ist jeder einigermaßen normal entwickelte Mensch ein geborner Idealist, und wie kann es da überhaupt noch Materialisten geben?

Drittens hat die Überzeugung, daß die Menschheit, augenblicklich wenigstens, sich im ganzen und großen in fortschreitender Richtung bewegt, absolut nichts zu tun mit dem Gegensatz von Materialismus und Idealismus. Die französischen Materialisten hatten diese Überzeugung in fast fanatischem Grad, nicht minder die Deisten Voltaire und Rousseau, und brachten oft genug die größten persönlichen Opfer. Wenn irgend jemand der "Begeisterung für Wahrheit und Recht" - die Phrase im guten Sinn genommen - das ganze Leben weihte, so war es z.B. Diderot. Wenn also Starcke dies alles für Idealismus erklärt, so beweist dies nur, daß das Wort Materialismus und der ganze Gegensatz beider Richtungen für ihn hier allen Sinn verloren hat.

Die Tatsache ist, daß Starcke hier dem von der langjährigen Pfaffenverlästerung her überkommenen Philistervorurteil gegen den Namen Materialismus eine unverzeihliche Konzession macht - wenn auch vielleicht unbewußt. Der Philister versteht unter Materialismus Fressen, Saufen, Augenlust, Fleischeslust und hoffärtiges Wesen, Geldgier, Geiz, Habsucht, Profitmacherei und Börsenschwindel, kurz alle die schmierigen Laster, denen er selbst im stillen frönt; und unter Idealismus den Glauben an Tugend, allgemeine Menschenliebe und überhaupt die "bessere Welt", womit er vor andern renommiert, woran er selbst aber höchstens glaubt, so

lange er den auf seine gewohnheitsmäßigen "materialistischen" Exzesse notwendig folgenden Katzenjammer oder Bankerott durchzumachen pflegt und dazu sein Lieblingslied singt: Was ist der Mensch - halb Tier, halb Engel.

Im übrigen gibt sich Starcke viel Mühe, Feuerbach gegen die Angriffe und Lehrsätze der sich heute unter dem Namen Philosophen in Deutschland breitmachenden Dozenten zu verteidigen. Für Leute, die sich für diese Nachgeburt der klassischen deutschen Philosophie interessieren, ist das gewiß wichtig; für Starcke selbst mochte dies notwendig scheinen. Wir verschonen den Leser damit.


"Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie"<281>
Friedrich Engels 1886,1888

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