スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

8月, 2009の投稿を表示しています

E038 経済のバランス 適切な重心

▽  (有翼の)航空機の重心   安定な巡航には適切な重心が不可欠   この重心が許容範囲をこえると、失速、墜落。    そもそも離陸不能。   かろうじて、飛行可能でも、    気流の乱れなどにたいする復元力はあやうい。    燃費が余計にかかる。 ▼ 経済・財政の重心。   この間、重心の異常なかたよりが進んだ   市場の暴走という「予期できない」災害のまえに   絵にかいたような失速。   かたよりがあると、安定で、無駄のない運行は困難   重心の修正。    USA,EUでは重心の修正が進められようとしている。    緊急のばらまきは、収束にむかいつつある。    ばらまきは、数ヶ月。重心の修正は長期政策。   この修正がことの核心。 ◆◆ かたよりから釣り合いへ。重心のシフト。      高効率で、安定に前進する社会へと。 ◆ ・輸出と内需のつりあい   ・企業利益と生活のつりあい      ・だれかの「構造改革」とは、このつりあいの破壊。    重心の位置を     許容範囲の外に大幅に、急速に、移したこと。     ・労働法制、意図した後退。→重心の移動、経済の失速。      労働コストの総和を下げて、「内部留保の蓄積」。                柔軟性が目的なら、賃金の総和がさがるはずがない     ・国民負担の増大による企業負担の軽減。→重心のシフト、経済の失速。 ◆ 所得が100万円低下したのは    リーマンショックのせいじゃなかった。   事前のこの低下が、    ショックに対応できない「構造」を準備した。 ◆◆ バランスを破壊しながら、     いまにいたっても、その教訓から目をそらすものが、     舞台からの退場を余儀なくされる。    適切なバランスをめざすことができるもの     =土台の多数者 の登場を歴史が求めている。

T032 哲学のそと  シュタルケのかんちがい

 ここでただもう一つ注意しておかなければならないのは、シュタルケがフォイエルバッハの観念論を不当な場所にもとめているということである。「フォイエルバッハは観念論者(イデアリスト)である。かれは人類の進歩を信じている。」(一九ページ)――「全体の基礎、下部構造は、それにもかかわらずあくまで観念論(イデアリスム)である。実在論は、われわれにとっては、われわれがわれわれの観念の流れを追うばあいに道をまちがえないための保護にすぎない。同情や、愛や、真理と正義への熱中やは観念的な力ではないか。」(序文八ページ)  第一に、ここで言われている観念論(イデアリスム)とは、理想的な目標の追求というということ以外の意味をもたない。しかし理想的目標が必然的に関係があるのは、せいぜいカントの観念論とその「定言的命令」(注一)だけである。しかしそのカントでも、かれの哲学を「先験的観念論」とよんだのは、そこで道徳的理想もまた取扱われているからではけっしてなく、まったく他の理由によるのであって、このことはシュタルケもおぼえているであろう。哲学的観念論は道徳的、別の言葉で言えば、社会的理想への信仰を中心とするものだという迷信は、 哲学のそとで生じた ものである。すなわちシラーの詩のなかでかれらに必要なわずかな哲学的教養の断片を暗誦しているドイツの俗物たちのあいだで生じたのである。カントの無力な「定言的命令」――それは不可能なことを要求するし、したがってまたけっして実現されることがないから、無力である―― をだれよりも鋭く批判し、またシラーが仲だちとなってつくりだされた、実現不可能な理想に対する俗物的な熱中をだれよりも無慈悲に嘲笑したのは、完全な観念論者ヘーゲルその人であった。(たとえば、かれの『精神現象学』(注二)を見よ。) (注一)判断の分類で、「もし……なら、……である」という判断は仮言的とよばれ、これにたいしてこのような条件のつかない判断は「定言的」とよばれる。「定言的命令」とは、無条件的な命令であって、カントは、道徳律は、「もし……でありたいなら、……せよ」という条件的な命令とちがって、無条件的だというのである。カントの「定言的命令」の定義は「なんじの意志の格率が同時に普遍的立法として通用するように行為せよ」であるが、カントの道徳観の根本特徴は、道徳をすべての自然的および社会的内容からき...

E037 普通じゃない使命 と ほこり    USAとJapanの共通性を抽象してみる。 

◆まづは、各「国」の個性 各国の個性  各国の歴史に規定される  具体的な経験に規定される  具体的な経験に基礎がある  具体的で、客観的な経験、歴史 ■ USA  と Japan   には 他国にはない共通の特徴(個性)がある。    20ctの経験    両国以外にはない経験    「核兵器を体験した」という経験。     普通じゃない経験 。 USA : 核兵器を実戦に使用した、という体験。 Japan: 核兵器による実際の被害を体験した。   両者とも普通の「国」じゃない。   普通の「国」になりたいとしても、    この体験は、取り消しのできない事実だから、    いやでも、普通の国にはなりえない。    両者は普通の国ではありえない 。 この普通じゃない両者には、 普通じゃない使命がある 言わずと知れている。 核兵器の全否定。 「日米」でなく「米日」の使命である。 この使命の達成は、両者に 文字通りの " Honourable " という 普通じゃない個性をつけくわえるだろう。 両者が将来共有するものが、真正の『 誇(ほこ)り 』であることを願う。

L014 抽象=そぎおとし 抽象の背理

抽象とは具体をそぎおとすことだ。捨象の結果。 分析じゃない。 抽象の結果、残されたものが、  そぎおとされた具体と対立することがある。 ●抽象の背理  残された具体と、そぎ落とされた具体の対立  とりわけ、  対立物の片側をそぎおとしてしまうと、(=極端な抽象)     主要な対立物の片側だけがいきのこる。 こうして、   現実へと(事実へと)立ち戻ると、「背理」に直面する。   「極端な抽象は背理となる。」 △共通性をもつ具体の連なりから、共通性を抽出する。   このとき、抽象という作業は有効だ。   事柄の範疇をつかむ上で。   しかし、    一旦、この範疇にあるとされるもののうち、    この抽象を、否定する事実があらわれる。(しばしば)    その事実の前には、抽象の結果が、    変更されなければならない。 ◇ 抽象とは、純粋に思考の領分である。 !RFC!    事実の領域にあるのではない。 ▲  したがって、    抽象を絶対化して抽象の結果から、    事実をとらえようとすると、    明らかな背理があらわれることがある。   いつでも、事実とともにいよう! ▲ 抽象と事実が相いれない時は、  誤りは抽象の側にある。(事実の側ではなく)   カモノハシは、卵生だが「哺乳類」である。   ワニには気嚢(に近い構造)がある。(鳥類でよいか?恐竜?) △独立した事柄の抽象にはさらなる危険が。恣意。    ◆ ことがらを、他との連関なしに単独に抽象する。      ほとんど、恣意から逃れられない。       好き勝手な捨象。      こんなことは、実際にはおこりにくい。      抽象は、捨象と比較をともなう。(普通は)      比較がなければ、捨象も困難。     恣意(へ理屈)を意図する特殊な人士は別だが。 ◆ともあれ、たったひとつの事実が「抽象の背理」をうちくだく。   単独でも、連関の中でも。 → L016 弁証法(的関係) 弁証法も若い ※      ※「単一民族国家」という抽象(「日本」の抽象の仕方の一つ)        (実際には「他の国家」と比べると。が前提だが。)       複数の民族という事実の前に、       この抽象は簡単に否定される。        未解明の古代史、先史も否定者であるだろう。      ※※「特殊な」人士...