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E036 民主主義の新しい段階

●民主主義の新しい段階 を社会が求めている。 その特徴。

・Peopleによる民主主義
・経済課題をもつ民主主義
・生活・生産の場での民主主義
(・「自決」)


▼ 長いスパンでみると。(歴史的にみるとこの段階とは)

・ ▽アジア的 (自然な「民主主義」 対立がない)
・ ▽奴隷制  (「市民」だけによる政体=形 ローマ法)
・ ▽封建   (封建領主による政体=形、「領主連合政権」とも)

・ ▽(絶対王権  全面否定だが。。)

・・ 資本制(市民社会)
・ ▽ブルジョア(BrG)民主主義革命(対封建、対絶対王権)

----------政体にとどまらない。Peopleの生産、生活にかかる
・ ▼Peopleによる民主主義(資本制だがBrGによらない。「執権」)

(・ ▽「より高い民主主義」(生産手段。対立がない。自然な「民主主義」))


●民主主義の歴史「二つの視点」 と その総合

・民主主義の「主導者」は誰か(どちらか)
・民主主義の「内容(実際の役割)」はなにか

△「土台」と主導者、「土台」と「民主主義」

これまでの歴史では、
「土台」の「主」と、統治の「主」の間の「ねじれ」は、
「古い統治の主」と「新しい土台の主」
土台の変化が先行

新しい段階では、
土台の「主」は非「民」だが、政治の主導者は「民」
経済は資本、統治は「民」
「新しい統治の主」と「古い土台の主」
土台の基本的構造はかわらない。

その経済的根拠。(必然性。)
資本制の危機を、BrGは打開できない。という、
眼前に繰り広げられている「土台の新しい段階」。
→E014 代理人の意志 と 社会による顧慮の強制
放置すれば、
社会の経済生活もろともに自己破綻(のくりかえし)
今回は(次回は)決定的な崩壊もさえ予感させる。

→危機の打開を主導する「新しい主導者」の必要。
=「主導者の交代」。
→E023 資本の求心力
→T024 資本の求心力→崩壊の必然←崩壊を防ぐ力がある


▲資本主義(経済)の腐朽と崩壊をくいとめて、
経済の健全な発展を担う、(持続可能な社会を担う)
新しい主導者の登場。(が、いよいよ現実の課題に)
=「民主主義の新しい段階」の核心
□ここでの「土台」は、
「市場」はもちろんのこと、「資本」が前提。
→E024 資本主義を担う主体 資本主義社会の担い手は資本家じゃない

▲新しい主導者が持つ課題
「資本の制御」(を通じて「市場の制御」)

圧倒的多数のこの勢力は、これまでもこの役割を果たしてきた。
今度は(21ctには)、本格的な主導者へと。

▽この新しい社会構造のもとで、その先には・・・


□※そもそも、民主主義とは。
Peopleと非People、両者の存在が前提
誰が(いづれが)「主」か。
が問題とされる時期のテーマ (「民」が「主」)

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