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T023 「過程の第一幕から第二幕へ」 と 「生産の目的は享楽ではない」 

 必要な生産手段すなわち十分な資本蓄積を前提すれば、剰余価値の創造には、剰余価値率すなわち労働の搾取度が与えられていれば労働者人口のほかにはなんの制限もなく、また労働者人口が与えられていれば労働の搾取度のほかにはなんの制限もない。そして、資本主義的生産過程は本質的に剰余価値の生産であり、この剰余価値は、剰余生産物に、すなわち生産された商品のうち不払労働が対象化されている可除部分に、表わされている。けっして忘れてはならないのは、この剰余価値の生産---そして剰余価値の一部分の資本への再転化すなわち蓄積はこの剰余価値生産の不可欠な一部分をなしている---が資本主義的生産の{{直接目的}}でもあれば{{規定的動機でもある}}ということである。それだから、この{資本主義的生産を、そうではないものとして、すなわち享楽を直接目的とする生産とか資本家のための享楽手段の生産とかいうものとして描いてはならない}()のである。そんなことをすれば、それは、資本主義的生産の内的な核心的な全姿態のなかに現われるその独自な性格をまったく無視することになるのである。
 この剰余価値の獲得は直接的生産過程をなしていて、この過程には、すでに述べたように、前述のような制限のほかにはなんの制限もない。搾り出せるだけの剰余労働量が商品に対象化されれば、それで剰余価値は生産されている。しかし、{この剰余価値生産では、ただ資本主義的生産過程の第一幕、直接的生産過程がすんだだけ}である。資本はこれこれの量の不払労働を吸収した。利潤率の低下に表わされる過程の発展につれて、このようにして生産される剰余価値の量は巨大なものにふくれあがる。ここで、{過程の第二幕}が始まる。

第三部第3篇第15章

E014 代理人の意志 と 社会による顧慮の強制(意思の善悪 K1でも)

Die Schöpfung von Mehrwert findet, die nötigen Produktionsmittel, d.h. hinreichende Akkumulation von Kapital vorausgesetzt, keine andre Schranke als die Arbeiterbevölkerung, wenn die Rate des Mehrwerts, also der Exploitationsgrad der Arbeit, und keine andre Schranke als den Exploitationsgrad der Arbeit, wenn die Arbeiterbevölkerung gegeben ist. Und der kapitalistische Produktionsprozeß besteht wesentlich in der Produktion von Mehrwert, dargestellt in dem Mehrprodukt oder dem aliquoten Teil der produzierten Waren, worin unbezahlte Arbeit vergegenständlicht ist. Man muß es nie vergessen, daß die Produktion dieses Mehrwerts - und <254> die Rückverwandlung eines Teils desselben in Kapital, oder die Akkumulation, bildet einen integrierenden Teil dieser Produktion des Mehrwerts - der unmittelbare Zweck und das bestimmende Motiv der kapitalistischen Produktion ist. Man darf diese daher {nie darstellen als das, was sie nicht ist, nämlich als Produktion, die zu ihrem unmittelbaren Zweck den Genuß hat oder die Erzeugung von Genußmitteln für den Kapitalisten}. Man sieht dabei ganz ab von ihrem spezifischen Charakter, der sich in ihrer ganzen innern Kerngestalt darstellt.

Die Gewinnung dieses Mehrwerts bildet den unmittelbaren Produktionsprozeß, der wie gesagt keine andren Schranken als die oben angegebnen hat. Sobald das auspreßbare Quantum Mehrarbeit in Waren vergegenständlicht ist, ist der Mehrwert produziert. Aber mit dieser Produktion des Mehrwerts ist nur der erste Akt des kapitalistischen Produktionsprozesses, der unmittelbare Produktionsprozeß beendet. Das Kapital hat soundsoviel unbezahlte Arbeit eingesaugt. Mit der Entwicklung des Prozesses, der sich im Fall der Profitrate ausdrückt, schwillt die Masse des so produzierten Mehrwerts ins Ungeheure. Nun kommt {der zweite Akt des Prozesses}.
K3<254>

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