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T021 遺言の執行

初版の序文(一八八四年)

 以下の諸章は、{{{ある程度まで}}}{遺言の執行}をなすものである。ほかでもないカール・マルクスその人こそ、彼の---ある限度内ではわれわれのといってもよい---唯物論的な歴史研究の成果と関連させて、モーガンの研究の結果を叙述し、これによってはじめてその全意義を明らかにしよう、と予定していたのである。マルクスが四十年まえに発見した唯物史観を、モーガンはアメリカで彼なりに新たに発見したのであり、それによって、未開と文明とを比較するさいに主要な点でマルクスと同一の結論に到達した。そして『資本論』は、ドイツのギルド的な経済学者たちによって、多年にわたり熱心に剽窃されたり頑固に黙殺されたりしたが、モーガンの『古代社会』も、イギリスの「先史」学の代弁者たちから、それとまったく同じ扱いをうけてきた。私の仕事は、私の亡き友人がもはや果たせなくなってしまったことにたいする、一つのささやかな埋め合わせを提供できるにすぎない。だが、私が持ち合わせている彼の詳細なモーガンからの抜粋のなかには、批判的な注釈があるので、私はそれをここにできるだけ再録することにする。

--「起源」 初版の序文 1884



Die nachfolgenden Kapitel bilden {{{gewissermaßen}}} {die Vollführung eines Vermächtnisses}. Es war kein Geringerer als Karl Marx, der sich vorbehalten hatte, die Resultate der Morganschen Forschungen im Zusammenhang mit den Ergebnissen seiner - ich darf innerhalb gewisser Grenzen sagen unsrer - materialistischen Geschichtsuntersuchung darzustellen und dadurch erst ihre ganze Bedeutung klarzumachen. Hatte doch Morgan die von Marx vor vierzig Jahren entdeckte materialistische Geschichtsauffassung in Amerika in seiner Art neu entdeckt und war von ihr, bei Vergleichung der Barbarei und der Zivilisation, in den Hauptpunkten zu denselben Resultaten geführt worden wie Marx. Und wie "Das Kapital" von den zünftigen Ökonomen in Deutschland jahrelang ebenso eifrig ausgeschrieben wie hartnäckig totgeschwiegen wurde, ganz so wurde Morgans "Ancient Society" (1) behandelt von den Wortführern der "prähistorischen" Wissenschaft in England. Meine Arbeit kann nur einen geringen Ersatz bieten für das, was meinem verstorbenen Freunde zu tun nicht mehr vergönnt war. Doch liegen mir in seinen ausführlichen Auszügen aus Morgan kritische Anmerkungen vor, die ich hier wiedergebe, soweit es irgend angeht.

--Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staats
---Zur ersten Auflage
----1884

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