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T019 雑踏の孤独 若きEの感性

{すでに街路の雑踏がなにか不快なもの、なんとなく人間性にさからうものものをもっている。}
1845 E 「イギリス」
(P87)

Aber die Opfer, die alles das gekostet hat, entdeckt man erst später. Wenn man sich ein paar Tage lang auf dem Pflaster der Hauptstraßen herumgetrieben, sich mit Mühe und Not durch das Menschengewühl, die endlosen Reihen von Wagen und Karren durchgeschlagen, wenn man die "schlechten Viertel" der Weltstadt besucht hat, dann merkt man erst, daß diese Londoner das beste Teil ihrer Menschheit aufopfern mußten, um alle die Wunder der Zivilisation zu vollbringen, von denen ihre Stadt wimmelt, daß hundert Kräfte, die in ihnen schlummerten, untätig blieben und unterdrückt wurden, damit einige wenige sich voller entwickeln und durch die Vereinigung mit denen anderer multipliziert werden konnten. {Schon das Straßengewühl hat etwas Widerliches, etwas, wogegen sich die menschliche Natur empört}. Diese Hunderttausende von allen Klassen und aus allen Ständen, die sich da aneinander vorbeidrängen, sind sie nicht alle Menschen mit denselben Eigenschaften und Fähigkeiten und mit demselben Interesse, glücklich zu werden? und haben sie nicht alle ihr Glück am Ende doch durch ein und dieselben Mittel und Wege zu erstreben? Und doch rennen sie aneinander vorüber, als ob sie gar nichts gemein, gar nichts miteinander zu tun hätten, und doch ist die einzige Übereinkunft zwischen ihnen die stillschweigende, daß jeder sich auf der Seite des Trottoirs hält, die ihm rechts liegt, damit die beiden aneinander vorbeischießenden Strömungen des Gedränges sich nicht gegenseitig aufhalten; und doch fällt es keinem ein, die andern auch nur eines Blickes zu würdigen. Die brutale Gleichgültigkeit, die gefühllose Isolierung jedes einzelnen auf seine Privatinteressen tritt um so widerwärtiger und verletzender hervor, je mehr diese einzelnen auf den kleinen Raum zusammengedrängt sind; und wenn wir auch wissen, daß diese Isolierung des einzelnen, diese bornierte Selbstsucht überall das Grundprinzip unserer heutigen Gesellschaft ist, so tritt sie doch nirgends so schamlos unverhüllt, so selbstbewußt auf als gerade hier in dem Gewühl der großen Stadt. Die Auflösung der Menschheit in Monaden, deren jede ein apartes Lebensprinzip und einen aparten Zweck hat, die Welt der Atome ist hier auf ihre höchste Spitze getrieben.
<256-257>

{社会戦争}、{すなわち万人の万人に対する戦争}
(P88)
Daher kommt es denn auch, daß {der soziale Krieg}, {der Krieg Aller gegen Alle}, hier offen erklärt ist. Wie Freund Stirner sehen die Laute einander nur für brauchbare Subjekte an; jeder beutet den andern aus, und es kommt dabei heraus, daß der Stärkere den Schwächeren unter die Füße tritt und daß die wenigen Starken, das heißt die Kapitalisten, alles an sich reißen, während den vielen Schwachen, den Armen, kaum das nackte Leben bleibt.

Lage der arbeitenden Klasse in England
<257>

->T017 若さのしるし①


((⇔
Thomas Hobbes Leviathan 1651

Bellum omnium contra omnes.
The war of all against all.
Krieg aller gegen alle.
))



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