スキップしてメイン コンテンツに移動

T018 若さのしるし② 変革の主役 (全人類の解放)

 {本書の一般的な理論的立場が--哲学的、経済学的、政治的な点で--私の今日の立場とけっしてぴったりとは一致しない}、ということは、おそらく注意する必要もないであろう。一八四四年には、近代的な国際的社会主義はまだ存在していなかった。それはその後、とりわけ、そしてほとんどもっぱら,マルクスの業績によって一つの科学にまで完成されたのである。私の書物は、国際的社会主義の萌芽的な発展段階の一つを代表するにすぎない。そして人間の胎児が、その最も初期の発育段には、われわれの祖先である魚類の弓形の鱈(たら)をいまなお再現するように、本書も、近代的社会主義がその祖先の一つ--{ドイツ古典哲学--の血統をひいていることの痕跡}をいたるところに示している。たとえば、共産主義は労働者階級の{たんなる党派的教義ではなく資本家をふくめた全社会を、現在の制限された諸関係から解放することを究極の目的とする}理論である、という主張に、非常な重点が--とくに結論において--おかれている。この主張は、{{抽象的な意味では正しい}}が、実際にはたいてい{無益というよりは、もっとよくない}ことなのである。有産階級が解放の必要を認めないばかりか、労働者階級の自己解放にも全力をあげて反抗しているかぎりは、そのかぎりでは、労働者階級はとにかく社会的変革を{独力で準備し、遂行することが必要}であろう。一七八九年フランスのブルジョアもまた、ブルジョアジーの解放は{全人類の解放}である、と宣言した。だが、{貴族と僧侶はこのことを認識しようと思わなかった}。この主張は--当時、封建制度が考慮されたかぎりでは、否定できない、抽象的な、歴史的真理であったけれども--まもなく純粋に感傷的な空文句に変質し、熱狂的な革命的闘争のなかで完全に消散してしまった。このごろでも、中立という一段高い立場から、労働者にたいして階級対立と階級闘争を超越した社会主義を説教する人たちがたくさんいる。しかし彼らは、まだ多くのことを学ばなければならない新米であるか、もしくは労働者の最悪の敵、つまり羊の皮をかぶった狼なのである。

ドイツ語版(1892)への序文 「イギリス」 E
(P33)

Es wird wohl kaum nötig sein zu bemerken, daß {der allgemein theoretische Standpunkt dieses Buchs - in philosophischer, ökonomischer und politischer Beziehung - sich keineswegs genau deckt mit meinem heutigen Standpunkt. }Im Jahr 1844 existierte der moderne internationale Sozialismus noch nicht, der seitdem, vor allem und fast ausschließlich durch die Leistungen von Marx, zu einer Wissenschaft ausgebildet worden. Mein Buch repräsentiert nur eine der Phasen seiner embryonalen Entwicklung. Und wie der menschliche Embryo in seinen frühesten Entwicklungsstufen die Kiemenbögen unserer Vorfahren, der Fische, noch immer reproduziert, so verrät dies Buch überall {die Spuren der Abstammung} des modernen Sozialismus von einem seiner Vorfahren - {der deutschen klassischen Philosophie}. So wird großes Gewicht gelegt - namentlich am Schluß - auf die Behauptung, daß der Kommunismus {nicht eine bloße Parteidoktrin der Arbeiterklasse ist, sondern eine Theorie, deren Endziel ist die Befreiung der gesamten Gesellschaft, mit Einschluß der Kapitalisten, aus den gegenwärtigen einengenden Verhältnissen}. Dies ist {in abstraktem Sinn richtig}, aber {in der Praxis meist schlimmer als nutzlos}. Solange die besitzenden Klassen nicht nur kein Bedürfnis verspüren nach Befreiung, sondern auch der Selbstbefreiung der Arbeiterklasse sich mit allen Kräften widersetzen, solange wird die Arbeiterklasse nun einmal genötigt sein, die soziale Umwälzung allein einzuleiten und durchzuführen. Die französischen Bourgeois von 1789 erklärten auch die Befreiung der Bourgeoisie für {die Emanzipation des gesamten Menschengeschlechts}; {Adel und Geistlichkeit wollten das aber nicht *einsehn}; die Behauptung - obwohl damals, soweit der Feudalismus dabei in Betracht kam, eine unleugbare, abstrakte, historische Wahrheit - artete bald aus in pure sentimentale Redensart und verduftete gänzlich im Feuer des revolutionären Kampfs. Heutzutage gibt es auch Leute genug, die den Arbeitern von der Unparteilichkeit ihres höheren Standpunkts einen über allen Klassengegensätzen und Klassenkämpfen erhabenen Sozialismus predigen. Aber sie sind entweder Neulinge, die noch massenhaft zu lernen haben, oder aber die schlimmsten Feinde der Arbeiter, Wölfe im Schafspelz,

Vorwort zur 2. deutschen Ausgabe der "Lage der arbeitenden Klasse in England"

<321>(11th)

->E015 代理人の解放


*einsehn : einsehen? (qm)




この記事を別の窓で開く

コメント

このブログの人気の投稿

L017 人類に可能なこと 人類の若さ

▽「人類は自然のチャンピオン」と思うにいたった、地表の人類が、    再び 外界を見つめ始めているが、 ▼人類は若い  可能性 若さ故に膨大な可能性を秘めている。   ・未来社会の意義     未来社会が本史   ・これまでの歴史の意義     前史   ・現在の意義     前史から本史へと移行する稀有な時期 ○○ - - -人類史全体がまだどんなに若いか、そして、我々の今日の見解をなんらかの 絶対的な妥当性をもつもののように考えることがどんなに笑うべきことであるか がわかる   「反デューリング論」 P177L+5 '76-'78(-'94最後の序文) ○○ 人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する   「批判」序言 '59 →L022 L022 思考は我々の宇宙を決して逸脱しない ○○  われわれはここで、このような見方が今日の自然科学の状態と完全に一致するかどうかという問題に立ち入る必要はない。 それは地球の存在そのものに終わりがあるかもしれないこと、   そして 地球上に人間が住める状態に終わりがあることはかなり確実であること予言しており、   したがって 人 類の歴史にものぼり道だけでなく、くだり道があることを認めている 。 それはとにかく、 われわれは、 社会の歴史が下降し始める転換点からまだかなりへだたっている し、 ヘーゲル哲学に当時の自然科学がまだまったく議題にのせていなかった題目をとりあつかうことを期待することはできない。   「FB論」 P18L-8 '88 ○○ 人類が少くとも今のところ大体において進歩の方向に動いているという信念   「FB論」P43 →T032 哲学のそと  シュタルケのかんちがい →L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論

T044 抽象を極端なところまで押しすすめるなら

F.Engels T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性 ↘(から続く) たとえば、太陽系の物体と地球上の物体との中間には、小惑星  ーーその若干のものにあっては       直径が弟系ロイス侯国ほどしかないーー 流星、等々がある。 また、地球上の物体と分子との中間に、生物界においては細胞がある。 これらの中間項が証明していることは、 自然はもっぱら飛躍でなりたっているからこそ、 自然にはどういう飛躍もない のだ、 ということにすぎない。  数学も、 現実の諸量を用いて計算する段になると、 やはりこういう考え方をそのまま適用するのである。 地球上の力学では、 地球の質量はすでに無限大と見なされており、また、天文学では地球上の物体やそれと同程度の大きさの流星は無限小と見なされている。 同様に、 天文学がいちぱん近い諸恒星をこえてわが恒星系の構造を研究しだすやいなや、 それにとって太陽系の諸惑星の距離や質量は消滅する。 ところが、 数学者が抽象という彼らの不落の要塞、いわゆる純粋数学にひきこもるやいなや、 こういう相似はみな忘れさられ、 無限はまったく神秘的なものとなり 、 無限量が解析学で取り扱われる仕方は まったく不可解な、いっさいの経験、いっさいの分別に矛盾するもののように見えてくる。 奇妙にも いつも正しい結果をもたらす自分たちのこういう手続を、数学者たちが説明する、というよりむしろ弁解するのにもちだしている愚諭やばか話は、 たとえば、数学者や自然科学者たちが嫌悪の情をいくら述べてもまだ述べきれずにいるあのヘーゲルの自然哲学のいちばんひどい空想    ー見かけだけの空想もあれば、ほんとうの空想もあるが−−― にくらべてさえ、いっそう輪をかけたものである。 彼らがへーゲルについて非難しているそのこと、 すなわち、 抽象を極端なところまで押しすすめ るということを、 彼らは自分ではるかに大がかりにやっている。 いわゆる純粋数学なるものの全体が抽象を収り扱っていること、 純粋数学の取り扱う諸量は、厳密にいえば すべて想像上の量 であること、 そして あらゆる抽象は、 極端なところまでそれを押しすすめるなら、 背理か、でなければ自己の反対物に転化する こと、 これらのことを彼らは忘れているのである。 数学上の無限は 、 たとえ無意...

L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論

▼ 初期の人類にとって、   「自然」や「他の生物」は、自らと同列の対象だった。(にちがいない。) ▽ 人類が、近隣の自然に働きかける規模が増大するのにつれて、   「自ら」と「その他の自然」の間の関係について、   特別の観念が生まれる。 ▽ 地表の環境に、「人類という自然」が大きく関わるようになった末、   温暖化などの新しい関係にたどりつく。 ▲ こうして、   「人類と言う自然」は、「他の自然」との同等性に   再び直面する。 ◇ 「意識という新しい自然の機能(階層)」が生まれたことは、    厳然たる事実ではある。 ◇ しかし、階層間の同等性、対抗性もまた厳然としてある。 □ この意識という人類に特有な機能が、「意識」の中で肥大化する。   しかし、この機能は、どこまでも自然の機能の一部分である。 ■  人類は自然のチャンピオン という「観念」は   「現代の観念論」の'哲学的'基盤の一つであるかもしれない。    意識は(観念は)自然を支配してしまうことができる     というかんちがい   ( 意識が 自然必然性を支配する という素朴なかんちがい ) ※ 自然としての自らを(さえ)支配できない、   「生死」   ということだけで、このかんちがいは・・・ →L020 自然を支配する →L017 人類に可能なこと 人類の若さ →L023 自然は存在として再帰的 意識と存在