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T011 否定の否定・生活手段 Eによる引用 2箇所 A/D

マルクスはこう書いている。
「それは否定の否定である。この否定は、個人的所有を再興するが、しかし、資本主義時代の成果を基礎として、すなわち、自由な労働者の協業と、土地および労働そのものによって生産された生産手段にたいする彼らの共同所有とを基礎として再興するのである。自己労働にもとづく諸個人の分散的な私的所有から資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的な生産経営にもとづいている資本主義的な私的所有から社会的所有への転化よりは、くらべものにならないほど長々しい、きびしい、困難な過程である。」
(※Eはドイツ語第2版から引用している。 4版とは多少異なる)

これだけである。つまり、収奪者の収奪によってつくりだされる状態は、個人的所有の再興であるが、しかし、土地および労働者のものによって生産された生産手段の社会的所有を基礎としての再興である、と言っているのである。だれでもドイツ語のわかる人にとっては、この文章は、社会的所有にはいるのは土地その他の生産手段であり、個人的所有にはいるのは生産物すなわち消費対象である、ということを意味する。そして、事柄が六歳の子どもにもわかるよりに、マルクスは五六ページで、
「共同の生産手段で労働し、自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」

、つまり社会主義的に組織された結合体を想定して、こう言っている。

「この結合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分はふたたび生産手段として役だつ。それはひきつづき社会的なもののままである。しかし、もう一つの部分は、結合体の成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。」

ところで、これは、たしかに、デューリング氏のヘーゲル化した頭にとってさえ、十分に明瞭であると思う。
(136 全集)
(203 大月)

Bei Marx heißt es:
»Es ist Negation der Negation. Diese stellt das individuelle Eigentum wieder her, aber auf Grundlage der Errungenschaft der kapitalistischen Ära, der Kooperation freier Arbeiter und ihrem Gemeineigentum an der Erde und den durch die Arbeit selbst produzierten Produktionsmitteln. Die Verwandlung des auf eigner Arbeit beruhenden, zersplitterten Privateigentums der Individuen in kapitalistisches ist natürlich ein Prozeß, ungleich mehr langwierig, hart und schwierig als die Verwandlung des faktisch bereits auf gesellschaftlichem Produktionsbetrieb beruhenden kapitalistischen Privateigentums in gesellschaftliches Eigentum.«

Siehe Karl Marx, »Das Kapital«, Bd. I, in: Karl Marx/Friedrich Engels: Werke, Bd. 23, S. 791

Das ist alles. Der durch die Enteignung der Enteigner hergestellte Zustand wird also bezeichnet als die Wiederherstellung des individuellen Eigentums aber auf Grundlage des gesellschaftlichen Eigentums an der Erde und den durch die Arbeit selbst produzierten Produktionsmitteln. Für jeden, der Deutsch versteht, heißt dies, daß das gesellschaftliche Eigentum sich auf die Erde und die andern Produktionsmittel erstreckt und das individuelle Eigentum auf die Produkte, also auf die Verbrauchsgegenstände. Und damit die Sache auch für Kinder von sechs Jahren faßlich werde, unterstellt Marx auf Seite 56 einen

»Verein freier Menschen, die mit gemeinschaftlichen Produktionsmitteln arbeiten und ihre vielen individuellen Arbeitskräfte selbstbewußt als eine gesellschaftliche Arbeitskraft verausgaben«

, also einen sozialistisch organisierten Verein, und sagt:

»Das Gesamtprodukt des Vereins ist ein gesellschaftliches Produkt. Ein Teil dieses Produkts dient wieder als Produktionsmittel. Er bleibt gesellschaftlich. Aber ein andrer Teil wird als Lebensmittel von den Vereinsmitgliedern verzehrt. Er muß daher unter sie verteilt werden.«


Und das ist doch wohl klar genug, selbst für den verhegelten Kopf des Herrn Dühring..

A/D<121-122>


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※  10.07.17 q
Siehe Karl Marx, »Das Kapital«, Bd. I, in: Karl Marx/Friedrich Engels: Werke, Bd. 23, S. 92/93 とあるが、
→T009 生産手段と生活手段 をみよう。注意深く..

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