(第2篇 貨幣の資本への転化)
この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容―-価値の増殖-が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として、機能するのである。だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむことによって、それをなしとげるのである。
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この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容―-価値の増殖-が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として、機能するのである。だから、使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。この絶対的な致富衝動、この熱情的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむことによって、それをなしとげるのである。
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