Memo
「物質至上主義」は『唯物論』?
市場原理主義 と 「物質至上主義」
原理主義 と 至上主義
ただもの論 と 無条件の「信仰」
資本の運動への拝跪 と ただもの論
Feuerbachと「信仰」
観照の形態 と 「実業」
※哲学の歴史にあらわれた 自称「唯物論」と自称「観念論」
▲批判の対象
批判者は何を批判しようとするのか?
●批判の対象は、
「物質」の固定化、絶対化 「物質」への拝跪 のようにみえる。
●「唯物論」は、物質を批判する。物質を「対象化」する。
『本源=物質を対象化する』という、『意識の能動』を求める
ところまで深化する。
物質至上主義と「規定される」ものは、
本源(物質)というカテゴリーを、ただただ前提し、対象とはしない。
物質からの供与を期待するのみである。
絶対化するのでもない。
自称「物質至上主義者」は居るか?
[人間という自然、それ以外の自然 いづれをも対象化しない。ただ、前提する]
[人間 、それ以外の自然という区分、対立は厳然としてある。]
[※二元論、一元論もややこしくからむ]
○ 物神化への拝跪 (価値形態・資本への無批判な拝跪)
○「物質」≒生産物、科学・技術への拝跪
○「感性」「心」の軽視
物質への拝跪。Feuerbachをチラリと想起させる。
「物質教」の本質は「観念論」とでもいえなくもない。
正確には、「本源性」を、はなから問題としない。
まぁ、ご都合主義・・
哲学などとは無縁。
「哲学の」2大別という範疇の外にある。
□※ 唯物論と観念論に区分する必要があるか?
Engelsが区分けしたその対象は、「哲学」である。
※Eは、哲学を二大分した。その意義は?
※「唯物論」の規定はEによるものでよいか?
哲学を区分けする意義はある。
ただし、「哲学を」。
哲学以外の事柄を、
「哲学の分類法」によって分類する意義はほとんどない。
哲学とも言えないものに、哲学のレッテルを貼ることに意味はない。
ばかりか、まつりあげるものだ。当事者こそ面食らうだろう。
まぁ、レッテル張りに意義を感じるむきもあるのだろう・・・
▲物質至上主義=唯物論 という「論」は、
「唯物論=ただものろん」という把握からの帰結ではないか?
「心」「意思」の軽視≠「唯物論」
※哲学のそとから。
FB論PP44L+1
哲学的観念論は道徳的、別の言葉で言えば、社会的理想への信仰を中心とするものだという迷信は、哲学のそとで生じたものである
→T032 哲学のそと シュタルケのかんちがい
「物質至上主義」は『唯物論』?
市場原理主義 と 「物質至上主義」
原理主義 と 至上主義
ただもの論 と 無条件の「信仰」
資本の運動への拝跪 と ただもの論
Feuerbachと「信仰」
観照の形態 と 「実業」
※哲学の歴史にあらわれた 自称「唯物論」と自称「観念論」
▲批判の対象
批判者は何を批判しようとするのか?
●批判の対象は、
「物質」の固定化、絶対化 「物質」への拝跪 のようにみえる。
●「唯物論」は、物質を批判する。物質を「対象化」する。
『本源=物質を対象化する』という、『意識の能動』を求める
ところまで深化する。
物質至上主義と「規定される」ものは、
本源(物質)というカテゴリーを、ただただ前提し、対象とはしない。
物質からの供与を期待するのみである。
絶対化するのでもない。
自称「物質至上主義者」は居るか?
[人間という自然、それ以外の自然 いづれをも対象化しない。ただ、前提する]
[人間 、それ以外の自然という区分、対立は厳然としてある。]
[※二元論、一元論もややこしくからむ]
○ 物神化への拝跪 (価値形態・資本への無批判な拝跪)
○「物質」≒生産物、科学・技術への拝跪
○「感性」「心」の軽視
物質への拝跪。Feuerbachをチラリと想起させる。
「物質教」の本質は「観念論」とでもいえなくもない。
正確には、「本源性」を、はなから問題としない。
まぁ、ご都合主義・・
哲学などとは無縁。
「哲学の」2大別という範疇の外にある。
□※ 唯物論と観念論に区分する必要があるか?
Engelsが区分けしたその対象は、「哲学」である。
※Eは、哲学を二大分した。その意義は?
※「唯物論」の規定はEによるものでよいか?
哲学を区分けする意義はある。
ただし、「哲学を」。
哲学以外の事柄を、
「哲学の分類法」によって分類する意義はほとんどない。
哲学とも言えないものに、哲学のレッテルを貼ることに意味はない。
ばかりか、まつりあげるものだ。当事者こそ面食らうだろう。
まぁ、レッテル張りに意義を感じるむきもあるのだろう・・・
▲物質至上主義=唯物論 という「論」は、
「唯物論=ただものろん」という把握からの帰結ではないか?
「心」「意思」の軽視≠「唯物論」
※哲学のそとから。
FB論PP44L+1
哲学的観念論は道徳的、別の言葉で言えば、社会的理想への信仰を中心とするものだという迷信は、哲学のそとで生じたものである
→T032 哲学のそと シュタルケのかんちがい
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