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T042 二つの系列の法則

二つの系列の法則  よく見るとここは未分化。   FB '86-'92 P61 FB '88  ヘーゲルはたんに投げすてられはしなかった。反対に、われわれは上述のかれの革命的側面、弁証法的方法に結びついた。しかしこの方法はヘーゲル的な形では役にたたなかった。ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。絶対的概念が永遠の昔から——どこかわからないが——存在し、それはまた現存する全世界の本来の生きた魂でもある。それは、『論理学』に詳しく取りあつかわれている、そして絶対的概念のうちにすべて含まれている、すべての前段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、自然に転化することによって自己を「外化』し、この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、最後に人間のうちで再び自己意識に達する。この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。だからヘーゲルにおいては、自然と歴史のうちに現れる弁証法的発展、すなわち、あらゆる曲折をもった運動と一時的な後退を通じてつらぬかれている、より低いものからより高いものへの進展の因果的連関は、永遠の昔から、どこでか知らないが、とにかくあらゆる思考する人間の頭脳から独立に進行している概念の自己発展の模写にすぎない。このようなイデオロギー的な逆立ちはとりのぞかれなければならなかった。われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見ないで、再び唯物論的にわれわれの頭脳のうちにある概念を現実の事物の映像と見た。このことによって弁証法は、外部の世界および 人間の思考の運動 の一般的な諸法則に関する科学となった。 この 二つの系列の法則 は実質において同じものであるが、 その現れ方から言えば次の点でちがっている。 すなわち、人間の頭脳はこれらの法則を意識的に使用することはできるが、  自然においては、  また人類の歴史においても   これまでのところ大部分 、 意識されず、 外的必然性の形をとって 、 偶然事と見えるもの の果しのない系列のただ中で自己をつらぬいているのである。 このことによって概念弁証法そのものは、現実の世界の弁証法的な運動の意識された反映にすぎないものとなり、このようにしてヘーゲ...

L023 自然は存在として再帰的 意識と存在

◆意識 と 存在のややこしい関係  ○「人類の自己認識」とは、     たちいると、トートロジーであるかのように     みえる。    事柄は次のごとし。     みずからが、     みずからによって、     みずからを認識する。     {さらに、みずからに(も)働きかける。(みずからをも対象化する)} しかし、  ▲自然は、     意識と言う現実の機能を、     人間において生成したことによって    存在として再帰的 なのであって、   再帰的ではない実在を、    再帰的論理によって説明するという    トートロジーではない。  ※ 自然は一般には自らを支配しないが    人類に限れば、自ら(の意識)を支配さえする。     人類の再帰性は、自然のうちで独特だ。    自然一般 と 人類という自然。    人類とは特殊な自然だが、自然に相違ない。    自然一般は人類という特殊な自然においてのみ再帰的。 →L020 自然を支配する →L021 人類は自然のチャンピオン と 観念論 →L017 人類に可能なこと 人類の若さ →T042 二つの系列の法則 ※注意しよう。  ・ここでは「実在」という「言葉」を用いたくはないが・・。   特殊Hegel的意味合いとは少々ことなる、    まぁ、「厳然として存在する」という・・  ・「再帰的」とはqに特有の用法。 ?    再帰 とは 循環ではない