F.Engels
T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性↘(から続く)
たとえば、太陽系の物体と地球上の物体との中間には、小惑星
ーーその若干のものにあっては
直径が弟系ロイス侯国ほどしかないーー
流星、等々がある。
また、地球上の物体と分子との中間に、生物界においては細胞がある。
これらの中間項が証明していることは、
自然はもっぱら飛躍でなりたっているからこそ、
自然にはどういう飛躍もないのだ、
ということにすぎない。
数学も、
現実の諸量を用いて計算する段になると、
やはりこういう考え方をそのまま適用するのである。
地球上の力学では、
地球の質量はすでに無限大と見なされており、また、天文学では地球上の物体やそれと同程度の大きさの流星は無限小と見なされている。
同様に、
天文学がいちぱん近い諸恒星をこえてわが恒星系の構造を研究しだすやいなや、
それにとって太陽系の諸惑星の距離や質量は消滅する。
ところが、
数学者が抽象という彼らの不落の要塞、いわゆる純粋数学にひきこもるやいなや、
こういう相似はみな忘れさられ、
無限はまったく神秘的なものとなり、
無限量が解析学で取り扱われる仕方は
まったく不可解な、いっさいの経験、いっさいの分別に矛盾するもののように見えてくる。
奇妙にも
いつも正しい結果をもたらす自分たちのこういう手続を、数学者たちが説明する、というよりむしろ弁解するのにもちだしている愚諭やばか話は、
たとえば、数学者や自然科学者たちが嫌悪の情をいくら述べてもまだ述べきれずにいるあのヘーゲルの自然哲学のいちばんひどい空想
ー見かけだけの空想もあれば、ほんとうの空想もあるが−−―
にくらべてさえ、いっそう輪をかけたものである。
彼らがへーゲルについて非難しているそのこと、
すなわち、抽象を極端なところまで押しすすめるということを、
彼らは自分ではるかに大がかりにやっている。
いわゆる純粋数学なるものの全体が抽象を収り扱っていること、
純粋数学の取り扱う諸量は、厳密にいえばすべて想像上の量であること、
そしてあらゆる抽象は、
極端なところまでそれを押しすすめるなら、
背理か、でなければ自己の反対物に転化すること、
これらのことを彼らは忘れているのである。
数学上の無限は、
たとえ無意識にであろうと、現実からとってきたものであり、
したがってまた現実からのみ説明できるのであって、
それ自体から、数学上の抽象から、
それを説明することはできない。
そして、もしわれわれがこの点にかんする現実を研究するならば、
以上に見てきたように、
数学上の無限関係をそこからとってきたもとの現実の諸関係が見いだされ、
そればかりか、
この無限関係を用いて運算する数学的手法にたいする相似物さえ、
自然のうちに見いだされるのである。
これでこの問題は説明がついたわけである。
Engels 「現実の世界における数学上の無限の原像について」 の末尾
1877? 1885? 諸説
→zzzzL014 抽象=そぎおとし 抽象の背理
→T045 抽象を極端なところまで押しすすめるなら ーーその直前 自然の階層性
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